宝塚「グレート・ギャツビー」感想|清く正しく美しい、完璧な月城版ギャツビー

宝塚「グレート・ギャツビー」感想|清く正しく美しい、完璧な月城版ギャツビー

月組公演「グレート・ギャツビー」を見た。月城かなとの「男役ど真ん中」なギャツビーはめっっっちゃくちゃ美しかった。海乃美月のデイジーも素晴らしい。月城&海乃コンビのギャツビーが見られる時代、最高。風間柚乃のニックは的確で、鳳月杏のトムは色気がすごい。そこに加えて輝月ゆうまのウルフシャイムの絶大な存在感。天紫珠李のマートルの狂気も素晴らしかった。芝居の月組、ここにあり。衣装も舞台装置も素晴らしかった。宝塚見たなぁ〜!という満足感。芝居が上手な組がやるコメディは絶品だけど、こういう芝居力勝負な演目もいい。

私はフィッツジェラルドの原作をかなり気に入っていて、最新の映画版ギャツビーも履修済み。個人的には「原作が宝塚版にどのように翻訳されたか」が気がかりだった(ちなみに過去に宝塚で上演されたギャツビーは見てない)。なので、その部分についての感想をちょっと書いていこうと思う。

原作との違い(ネタバレ)

ギャツビーがオロオロしない

ギャツビーが念願叶って5年ぶりに想い人デイジーと再開するシーン。原作ではニックの家でデイジーを待つギャツビーは極度に緊張し、それまでの堂々とした立ち居振る舞いから一転、オロオロと明らかに狼狽え、棚の時計を落としちゃったりする。ギャツビーの一途さ、未熟で少年的な一面が現れる印象的なシーン。これが宝塚版ではまるごと省略されている。月城版ギャツビーは白いバラの花束を胸に、デイジーの目の前に堂々と登場する。どうだ、君の理想の男が登場したぞという感じだ。

デイジーの娘への言及

デイジーとトムの娘の扱いも大きく異る。原作では最初の方にちょっと登場したきり、全く存在感がない娘。宝塚版ではデイジーがたびたび娘を気にかけ、ギャツビーはデイジーを口説き落とすとき「君の生んだ子なら愛せるよ」と優しく囁く。娘がデイジーをギリギリ現実につなげ止めている。原作ではそれがサッパリ無い。娘完全スルー。確かに、女性からしたら娘を全く気にかけない母親なんて共感できない。宝塚のお客さんには、デイジーになった気持ちでギャツビーにときめいて欲しいだろう。

トムとデイジーがそんなに嫌な奴じゃない

原作ではデイジーの夫トムが、復讐心に取り憑かれたウィルソンに「ギャツビーが奥さんを殺した」と仄めかす。また、デイジーはギャツビーが死んだときにはさっさとヨーロッパに逃げ去っていて、死を悼む描写はない。ギャツビーの死がデイジーにさえ顧みられないことは原作で大きな意味を持つので、この改変は意外だった。宝塚というエンターテイメント空間では、原作のトムとデイジーは余りにも非情すぎるのだ。

グレート・ギャツビー

どんなにショウアップされても損なわれない味わい

原作と違うところを指摘し始めたらキリがないが、本質的な部分の改変はこんな感じだ。宝塚のお客さん向けに完璧にショウアップされた、まさしく宝塚版ギャツビーである。大胆すぎる改変、小池先生すごい。原作好きからしてみるとかなり印象が異なるギャツビー像ではあるが、これはこれでアリだなと思えた。

宝塚版で、ニック(風間柚乃)はギャツビーに「デイジーに引き合わせてくれないか・・・偶然を装って」と言われ大笑いしてしまう。デイジーの友人ジョーダン(彩みちる)に思わずキスしてしまったとき、純粋な恋心を抱くわけでもなく「責任を取るよ」なんて言ってしまう。やはりニックは原作と同じように「大人になろうとしている青年」として描かれている。

ニックは30歳になる直前にギャツビーに出会う。一握りの人間しか持ち得ない美しい魂を備え、世俗にまみれ年を重ねてもそれを決して手放さず、一人の女を一途に愛し続けた男。ニックはそんなギャツビーを心から讃える。今まさに「大人」になろうとしているニックにとってギャツビーは何よりも美しく思えた。彼の死が薄汚い大人たちに、愛した人にさえ顧みられなかったとしても、自分だけはギャツビーを弔うことが出来る。彼の美しさを知っている。

宝塚版のギャツビーはこれでいいと、小池先生は言っていた。確かにそのとおりだと思う。ギャツビーの類まれなる美しさは映画版以上だ。迷えるニックの人生に現れた妖精のように美しい男。ひたすらに清く、正しく、美しい。月城かなと以上にギャツビーをきちんと演じられる人はそういない。自らの美学を命がけで守る、高潔な男。それがギャッツビーなんだから。